手放し=全一愛
多くの人は
世俗の情報に振り回され、
さっきの出来事や
過去にとらわれ、未来を心配してしまいがちです。
観察するための
「客観世界」に振り回されて、
「意識の主体性」を
欠いた状態になってしまうのです。
そのことを、
遊魂(ゆうこん)とか、遊霊(ゆうれい)と言います。
つまり幽霊。
ゾンビでもいい。
肉体はあっても、
「今ここ」から意識が抜けている状態です。(あなたはいかがでしょう?)
意識の「主体性」を欠いて、
【無意識】になっています。
そして【無意識】になっているから
何も観察できず、気づけていないのです。
「今ここ」の自分に意識が無く、
繊細な気付きが無ければ、まさに「死んでいるのと同じ」ですから、
私たちが【無意識】に
言動するならば、
それはゾンビの行為か、
夢遊病者の言動(不覚の言動)でしかありません。
客観世界に振り回されて
【無意識】に言動しているだけだから、そりゃあ退屈にもなります。
ですから、私たちは
もっともっと【意識的】に生きる必要があります。
それは、気付く働き、
感じる働きを研ぎ澄ますためなのです。
感じるは
「神知る(かんじる)」に通じます。
今ここを
感じきることです。
この感じる(神知る)という働きは、
自然界に身を置くことや、すてきな芸術、新しいモノゴトに親しむことで、より一層高まります。
あなたが客観世界という
対象に振り回されて、
「意識の主体性」を
欠いている場合、
観察の対象を
完全に「手放す」
必要があります。
「手放す」という表現には
誤解が多いので申し添えますが、
「手放す」は
拒絶のことでもないし、あきらめることでもありません。
例えば、お金のことを
手放すというのは、お金を拒絶したり、捨ててしまうことではないし、
ましてや、受け取りを
あきらめることでもありません。
お金という「対象」から
「意識の主体性」を
取り戻すことなのです。
これをさらに
分かりやすく言います。
例えば、あなたが
ボールペンを握っているとします。
この時、手が「主体」で、
ボールペンは対象(客体)です。
そして、あなたが
ペンを投げつけたり、嫌って拒絶しなくても、
ただ普通に「手を放せば」、
ペンは勝手に落下します。(そうですよね?)
重要なのは、
「手放し」とは
「ペンを落とす」
ことではない
という点。
「落ちる」と
「落とす」とは全く違う。
「手放し」をすると言いつつ、
「ペン落とし」をしていませんか?
「手放し」には、
対象(客体)を【どうにかしよう!】という操作の念は一切ナイのです。
対象をどうにかする
のではなく、
ただ対象から
「主体」へと
意識を戻すことが
「手放し」の極意です。
対象(客体)が
「非物質」「見えないもの」であっても同じことです。
あらゆる全てを「受容する」
という全一愛、
それは、あらゆる全てを
「手放す」ことに尽きるのです。
あらゆる全てを手放しても、
否、手放すからこそ、
どうしようもなく
「残るもの」が見えてくる。
そして、それが「真の自己」だと
分かってくる。
ゼロなる意識、
虚空なる意識だと分かってくる。
家族や友人を手放し、
財産を手放し、
身分・役職を手放し、
他との比較(優劣合戦)を手放し、
知識を手放し、
統計学(占い学)を手放し、
達成してきたもの(名誉・学歴・勲章・賞状)を手放し
戦略性格を手放し、
名前を手放し、
使命感を手放し、
我と信じた全てを手放す。
さあ、あなたは
何を手放せないでいますか?
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